日記の効用

荒川洋治さんの<A HREF=http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3be9eb04314cb0105a09?aid=p-mittei16105&bibid=02128121&volno=0000>『日記をつける』</A>(岩波アクティブ新書)読了。
子供のときからずっと日記をつけてきたという、”日記の達人”である、荒川さんが選んだ、さまざまな人の日記は、どれも興味深い。

もちろん荒川さんの日記も紹介されている。しかし多くのページが、一般人から文学者まで、古今東西、さまざまな人の活字になった日記の紹介に割かれている。
いろいろな日記のかたち、日記から生まれた別のもの、日記をつけることで見えてくるもの、さらには、日記を長続きさせるための視点といった、日記をめぐる様々な事柄が、具体例とともに示される。

とはいえ、この本で紹介されているのは、手書き・非公開を原則として書かれた日記である。荒川さんが考える日記とは、自分だけのためにつけられたものだ。
そのことは、手帳と日記との違いについて述べている
「たとえ家族であっても公開されるものは日記とはいえない」
という一文に、端的にあらわれている。

他にも、いろいろと荒川さんが考えている「日記」の定義を読んでいると、わたしのこの日記は「日記」と呼べるのか、という疑問もわいてくる。
こうして、ネット上で公開し、友人・知人に読んでもらう。そのことによって、何かしら毎日書かないと、せっかくこの日記を訪問してくれた人に、申し訳ないという、自分自身へのプレッシャーをかけることで、三日坊主を防止しようというのだから、姑息なのかもしれない。そんなことも考えさせられた。
だが、ここに毎日(ほぼ毎日というべきなのだが)、その日買った本や、読んだ本、気になった本のこと、自分が好きで大切に思っている「本」から派生するいろいろな出来事、思いについて書きとめておくことは、少なくともわたしにとっては、意味のあることなのである。

積ん読日記」という場があるから、本にまつわることを、ここに書いておく。そうすれば、その時読んだ本のこと、興味をもった本のことから、後からその時々に、自分が何を考えていたのかということを、思いだすための一番確実な手掛かりになるからだ。だとすれば、荒川さんが考えておられる「日記」の概念と、そう大きくは違わないと思うのだが・・・。