「文章読本」は男の沽券だった

斎藤美奈子文章読本さん江』(筑摩書房)を読み終えた。
読んでいる途中から「これは、女性だから書けるのでは?」と思っていた。
読み進んでいくうちに「IV 下々の逆襲」のなかで、やはり出てきた、出てきた。

斎藤さんは、いよいよ迎えたクライマックスで、
文は人なり」なんていうのは役立たずで、ほんとは「文は服なり」なのである。
と、指摘する。
このことは、古代ローマの時代から指摘されていたことだった。
とも。
そのタイプは、3つあり、いくつかの例を挙げている。

ただ、それらの例文は、「服にたとえると、すべてホワイトカラーの衣服ばかりなので、何か変だ。しかも異様に時代錯誤。」と鋭く切り込む。
ここからが、なるほど、でありクスクス笑いの素なのだが、
「どうりで、ジャーナリスト系の文書読本には色気が不足」していて「正しいドブネズミ・ルックのすすめ」で、たまに気張って軽い文章を書こうとすると「カジュアル・フライデーっぽくなる」という指摘は、自分の周囲にいる新聞記者に、かなり当てはまる。

また、公文書の紋切り型、裁判の調書や判決文の特異な言い回しを、
「いわば警察官や自衛官の制服みたいなもの」
と看破する。なるほどね。それらには、他に使い道のない、でも、そこではそれでないと成り立たない、特殊な役割を持たされてしまって、現状ではそこから逃れ出ることができないのだ。

「女は化粧と洋服にしか関心がないと軽べつする人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が『身体の包み紙』に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は『思想の包み紙』に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど『見てくれのよさ』にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が、並みいる文章読本ではなかっただろうか。」

そう、まさに「文章読本」は、”男の沽券”なのだ。

「はじめに」の中で、文章読本というジャンルは、
「もっとも花を贈るにふさわしい晴れの舞台だと思われます。その場合の札は、こんなふうになりましょう。
  祝「文章読本」執筆  凸山凹郎さん江
なぜ『祝』なのかは、おいおい理解していただけるはず」
と述べている。

「我こそは」と続々参入してくる「文章読本」の著者たちにとって、そこはまさに「ハレ」舞台であって、その劇場のロビーには、花と札があふれていなければ、と皮肉った斎藤さんの慧眼にこそ、わたしは拍手を贈りたい。