エリート町人と落ちこぼれ武士が描いた江戸末期(一)

杉本章子さんの『名主の裔』(文春文庫)読了。
そもそもは、杉本さんの直木賞受賞作である『東京新大橋雨中図』を探しているのだが、なかなか見つからない。そんな時に、同じ杉本さんのこの本と『爆弾可楽』(文春文庫)を見つけて購入した。
『爆弾可楽』の方は、最近ハマっている北村薫さんの「私と円紫師匠シリーズ」の影響。江戸から明治にかけての落語家の評伝である。

一方この『名主の裔』の方は、はじめはさして興味を惹かれていたわけではない。この小説の主人公である斎藤市左衛門は、神田雉子町に住む、草創名主二十四家のひとつ斎藤家の九代目当主であると同時に、月岑という筆名で『江戸名所図絵』を著した人だと知って興味を覚えた。

『江戸名所図会』と月岑の名は知っていた。しかし、彼が名主であったということ、『江戸名所図会』が、斎藤家父子三代の手によって完成したものであったこと、などは知らなかった。
江戸から明治へと日本の社会が大きく転換する局面で、九代目市左衛門という庶民を束ねる名主が送った激動の日々は、非常に面白い。冒頭で、黒船に乗ってやってきたペリーの接待を命ぜられた市左衛門たちは、女衒まがいのことまでやらされている。役人たちは、名主にこうした厄介ごとを命じるだけ。なんだか、今も昔も役人の体質は変わらないな、と思う。

また、安政の大地震に見舞われ、その復興に追われるなかで、月岑は『安政乙卯武江地動之記』を書き上げている。その動機は、それ以前から彼が書き続けてきた『武江年表』と同じく、正史には残らない庶民の記録を留めたいというものだった。しかしその裏には、戯作者で後に新聞記者を経て官僚になる仮名書魯文の
「名主様のお書きになるものは、しょせん旦那芸でしかねえ。ぬくぬくと暮らしている名主さんのお道楽。お遊びでございますよ。だからして綺麗ごとが吐ける。実にうらやましい」
という挑発も、大きな動機となっていると、杉本さんは述べている。

さらに月岑は、大政奉還とそれに続く戦、そして職業の危機を乗り切るために、様々な努力を重ねてもいる。そこには、月岑とはまた別の、草創名主斎藤家の当主であるという、誇りが大きな精神的支柱(ゴンと名波か?)になっているということも、示されている。