遅れて来た「青春の読書」の効用(1)

坪内祐三編<A HREF=http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3be9eb04314cb0105a09?aid=p-mittei16105&bibid=01920974&volno=0000>『明治文学遊学案内』</A>(筑摩書房)読了。

拾い読みをしていたので、読了までに思いのほか時間がかかったが、面白くなかったわけではない。
冒頭の「その『新しさ』を読む」で、坪内師匠は、自分が中学生くらいまでは、ほとんど読書などしない少年だったことを告白されたのち、
<b>負け惜しみでなく、私は、自分が早過ぎた読書家でなかったことを良かったと思う。読書家だったかつての級友に、クラス会か何かで再会すると、たいてい(悪い意味での)ただのサラリーマンか主婦になっていたりする。
大人になって、まだ目を通していない、つまり未知の名作や古典があることは、実は、とても幸福なことだ。その意味で、明治文学は、名作や古典の宝庫だ。</b>
と、書いておられる。

わたしは、この中で取り上げられている作家や作品のうち、ある程度読んだと言えるのは、漱石二葉亭四迷くらいだろうか。
鴎外は、教科書で読んだ程度だし、露伴も同様といった程度だ。
あとは、歌舞伎にハマっていたので、北村薫さんが取り上げておられる黙阿弥は、テキストもいくつか読んでいる。
仕事でお世話になっている方の中に、「雑学博士」的な方がいらっしゃる。食事やお酒の席で、ちょっとしたことから、その博識ぶりをご披露いただくのだが、お話にユーモアな味があるので、伺っていてイヤな感じは受けない。

松山俊太郎さんと坪内師匠の対話会を聞きにいったという話をした時も、松山さんのことはご存じなかったが、種村季弘さんの一件をお話ししたら、そこから話題は澁澤龍彦さんのことに及んだ。澁澤さんの本は、ほとんど読んでいないので、いろいろと例によってご教示いただいた。
この方と、仕事以外の雑談をしていると、「結構自分では本を読んできたつもりになっているけれど、まだまだだな」とつくづく感じてしまう。