古本道はじめの一歩?

紀田順一郎さんの『鹿の幻影』(創元推理文庫)読了。

神保町の古書店の元社長が殺された。警察は、当日現場の隣にある古書店に集まっていた愛書家たちが犯人とにらみ、捜査を開始するのだが・・・。
古書と古書を愛する人々の生態も盛り込まれた長編推理小説

黎明の会という古書マニアの親睦会の会員が、事件に巻き込まれるのだが、その最年長会員である岩本が、同人誌に発表したというエッセイで
<b>古い本は時間の運搬車(ヴィークル)である</b>
と書いていることが、刑事の口から語られている。
<b>「わたしはね、過去の時代が静止したまま詰まっている媒体が、いとおしくてならないんですよ。この世にあるそのような時間を、できることなら全部わがものにしたい。</b>
さらに岩本は、古書を集めることを
<b>趣味というより生きがいですわ。収集の結果ではなく、収集の場面というか、過程が楽しみでね。古本屋の店先に立って雑然とした棚を見回すときの快感は、これを人生における至福の境地といわずして何といわん。</b>
とまで語っている。

古書収集を愛する人の気持は、すべからくこういうものなのだろうか?
わたしの場合は、読みたい本が新刊書店で買えないから、古書店新古書店などで探しているのだが、確かに、古書店の雑然とした棚から、自分が探している本を見つけたときの達成感のようなものは、なんともいえず、いいものだ。それが、思ったよりも安く手に入れば、なお嬉しい。

すでに、積ん読本があふれているのに、それでも本を買わずにいられないのは、古書収集への一歩を踏み出しているということなのかもしれない。
「そんなに買って、全部読むんですか?」と今、もし人から問われても、「全部は読めないかもしれないですね」としか、答えようがない。「だったら、読めそうな本だけを遺して、あとは処分すればいいじゃないですか」と言われても、「読みたいから買った本なので、まだ読んでもいない本は処分できません」と答えるだろう。
ということは、まだまだ古本道の入口に立ったばかりということか。