音のない世界から聞こえてくるもの(1)

黒岩比佐子さんの『音のない記憶』(文藝春秋)読了。

ベッド脇に積んであった読みかけ本のなかの1冊。
井上孝治さんという、ろうあの写真家の生涯を追っている。
黒岩さんは、博多の老舗百貨店・岩田屋のキャンペーンで一気に脚光を浴びた井上さんの写真集『思い出の街』(河出書房新社)の年譜などを作る仕事を頼まれて、生前の井上さんに取材をしている。その時には井上さんから聞き出すことができなかった真実を見つけるために、黒岩さんは遺族や友人・知人を訪ね、井上さんの足跡を追っていく。その成果をまとめたのが、この『音のない記憶』である。

この本にも、多くの井上さんの作品が収録されている。そのほとんどは、人物が写っている。それも、子供達の生き生きとした日常を井上さん独特の感覚で切り取ったスナップだ。
井上さんは、木村伊兵衛を尊敬して、その写真を目標としていたそうだが、わたしが見たことのある木村伊兵衛が撮影した、昭和の街の人々を題材とした写真と、雰囲気が似ている。

井上さんの写真は、ろうあというハンディキャップと深い関係があるだろうと、黒岩さんは書いておられる。
目が見えない人が、聴覚が研ぎすまされて行くということは、聞いたことがあったが、それと同じように、耳が聞こえない人は、視覚が研ぎすまされていくという、研究結果が実際あるそうだ。

井上さんの写真に写っている人は、どの人もみんな普段着のかざらない、それでいてその人の一番いい顔なんじゃないか、と思わせるようないい表情をしている。
被写体に、写真を撮られるということへの抵抗感を持たせない、そういう何かが井上さんには備わっていたのだろう。そのひとつが、ろうあという障害を持っていることだったのではないかと、黒岩さんは述べている。