『作家の値うち』の使い方(2)

鹿島茂さんとの対談では、同じ仏文学を専門とされ、毎月たくさんの連載を持ち、大学で教鞭をとっておられるお二人ならではの展開が、刺激的だ。「バルザックの多作ぶりは、借金のせいだけれど、それが作品の質を低めることがなかったのが、すごい」とか。そこから鹿島さんが「福田和也は月に三百枚も書いてますよ」と、ある編集者から原稿を催促されたと披露すると、福田さんも同じ編集者から鹿島さんを引き合いに催促されたと、打ち明けあっているところが、おかしい。また、批評を書くと言うお仕事がら、大量に読むことが必須とされるお二人が、口を揃えておられるのが、「立ち読み」と「抜き書き」のススメ。なるほど、とさっそくその部分を私がメモを取ったのは言うまでもない。また、お二人らしい指摘だと思ったのが、日本の文壇には「サロンとそこを取り仕切るメトレス」が決定的に欠けているという点。そして、大学で未来のスノッブを育てようということで、結ばれている。

中野翠さんとの対談で印象的なエピソードは、福田さんが獅子文六について
<b>日本で、バルザックに匹敵する作家がいるとすれば、獅子文六以外ありえませんね。</b>(P.136)
と、高く評価されているということ。中野さんは折に触れて、獅子文六が面白いということを書いておられるが、福田さんと獅子文六というのは、意外だと、中野さんもこの対談の中で指摘しておられる。
そして、お二人が高く評価されている小林信彦さんの傑作が絶版になっていることが悔しいという話題から、作品の善し悪しとは別になぜか文壇挙げて後押ししてベストセラーに祭り上げられてしまった小説の不可解さ、中野さんが小説を読まなくなった理由などが展開されて行く。そして今の文芸評論家には”批評”という意識が欠けているというところで結ばれている。
その結びの部分での、中野さんの発言にはハっとさせられた。
<b>自分の好き嫌いを活字にせずにはいられないなんて、基本的にはしたないことでしょう。だから、せいぜい書くこと以外のところでは静かに小さくなって生きたいなあ、って思っているの。</b>
中野さんの、こういう”恥じらい”というものを体感として持っておられるところが、中野さんの批評を読んでも後味が悪くない所以なのだと、わたしは気付いた。