”読まず嫌い”だった里見とんに目覚める(2)

どれもフィクションのようでありノンフィクションのようでもあり、時々、ドキっとするような省略があって、とまどうのだけれど、最後まで読むとスーっと腑に落ちる、そんな作品だ。

どれも、常識で捉えるとちょっとその枠からはみ出しているような人間が描かれているのだけれど、そのいわゆる“常識”の枠に囚われないところが、最後には潔さとなるのが、読後に爽やかな印象を持つ所以なのだろう。
また、ちょっとした会話の言葉が、美しいところがいい。たとえば、「鶴亀」のこんな一節
<b>「寒いところを、よく来ておくれだったね。……いいえ、今晩はね、ちょっと心うれしいことがあってね、……お蕎麦だよ……、ほんのお蕎麦だけのことなんだけど、あたしのおごりさ。お前さんが永坂びいきなことは知ってるけど、どうしても今夜はそういかないわけがあるんだから、……いいえ、いやだったら、ほんの一口でもいいから、とにかく箸をつけておくれね」</b>
「この台詞は、誰に似合うだろう?」などと、つい考えてしまう。

そして、「彼岸花」だ。わたしは、小津安二郎作品は、ちゃんと見たといえるのは「東京物語」「秋刀魚の味」など数本しかないので、この「彼岸花」と小津の「彼岸花」が結びついていなかった。
ただ、読みながら他の里見作品もそうなのだが、特にこの「彼岸花」は映像的だなと思いながら読んでいた。
すると、武藤康史さんの解説を読んでいたら、小津監督から「作品を映画化したい」と申し込まれて、それならいっそ一緒にやろうということになって、小津監督・脚本家の野田高悟とともに、湯ヶ原に滞在して大筋を相談して、脚本は2人が、小説は里見が、別々に書いたのだということを知った。
その後、小津監督は『秋日和』も映画化しているし、そうと断ったわけではないが、あちこちに里見作品の影響があるのだという。

巻末の著書目録を見ると、とりあえず岩波文庫でいくつかの作品が読めるようなので、そのあたりから手をつけつつ、古本屋さんで少しずつ里見とんの作品を探して行きたいと思う。