ありがとう、志ん朝師匠(2)

落語を好きになって、初心者なりに決めたことがある。
敢えて予習はしないということ。だから、生で聞いたことのない噺は、CDも聞かない。
うまい言葉がみつからないのだけれど、まず生の高座を聞いて、その噺が好きかどうか、その噺家さんが好きかどうか、ということを感じ取りたいと思っているからだ。

志ん朝師匠の訃報に接した時に感じた「しまった」という気持が、今のわたしの落語通いの原動力になっている。
だから、生の高座に接することもなく、その後、志ん朝師匠のCDを聞き込んでいるわけでもないわたしだが、それでも「ありがとう、志ん朝師匠」と、申し上げたい。