一味違う「渥美清論」(1)

矢野誠一さんの本は、落語に興味を持つ以前から、何冊か持っていた。しかし、拾い読みすることが多く、なかなか通読するには至っていない。
ひとつには、手持ちの本が、落語の演目についてのものばかりで、落語を聞くようになってからは、敢えて予習しないことにしたから、ということが挙げられる。

落語を聞くようになって半年あまり。これまで聞いたネタを書き出してみると、やっと90演目に手が届いたところだ。もっとも、最初の頃に寄席で聞いた噺は、なんだかわからないまま聞いて、帰ってきて調べをつけることもできなかったものが少なく無いので、実際にはやっと100演目くらいだろうか? もっとも、それを聞いたといっていいのかどうかはよくわからないが・・・。

もうひとつ、矢野さんの著書で入手しやすいものの中に、評伝ものが少ないということもある。志ん生師匠や円生師匠についての評伝は、一般の書店の棚にはなかなか並んでいないので、ついつい後回しになってしまう。いずれ、池袋のジュンク堂あたりでまとめて入手しようと思いつつ、まだその目論見は果たせていない。

ところが、このところの小沢昭一さんに端を発する”芋づる読書”のおかげで、自宅の本棚から掘り出した、落語関係の文庫本の中に、矢野誠一さんの『芸人という生き方 渥美清のことなど』(文春文庫)があったので、さっそく読み始めた。
ちなみに、渥美清の評伝といえば、小林信彦さんの『おかしな男 渥美清』という名作の誉れ高い作品があるのだが、これまた新潮文庫版が出てすぐに入手していながら、まだ読み始めるには至っていない。

矢野さんは、渥美清という役者を、追悼として世に出た数多の”渥美清本”とは一線を画す見方を提示している。
わたし自身、渥美清=車寅次郎という見方しかしていなかった。テレビでは「男はつらいよ」シリーズ以外の渥美清主演作品もいくつかは見ているのだが、あまりにもフーテンの寅のイメージが強すぎて、それらの作品の印象は、薄くなってしまった。だから、渥美さんの訃報に接したとき、まず思ったのは「これで『男はつらいよ』も終わったんだな」ということだった。