文化史家としての坪内祐三と『一九七二』(2)

坪内さんは、<b><a href=http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/410610010X/qid=1051766104/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-6280686-2859416>『新書百冊』</a></b>の中で、「本当は文化史家」だとご自分のことを述べておられたが、『一九七二』を読んでみて、そのことを改めて確認した。
あとがきで、
<b>だれも気づかないかもしれないけれど、実は私はこの『一九七二』を、<a href=http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101226318/qid=1051766148/sr=1-26/ref=sr_1_2_26/250-6280686-2859416>『靖国』</a><a href=http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838712065/qid=1051766186/sr=1-5/ref=sr_1_2_5/250-6280686-2859416>『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』</a>に続く私の日本近代史三部作の第三部であると秘かに考えていました。(中略)
いずれ私は、このあと、それを五部作、七部作、九部作、・・・・・・と続けて行くつもりです。</b>
と、坪内さんは述べている。この件を読んではじめて「あ。そうか」と思ったわたしは、まだまだ読みが甘いということを痛感している。
近代文化という視点から捉えれば、たしかに、『一九七二』は、『靖国』『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』と同じ系譜に連なる著作だった。
慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』を読んだときに、その切り口と、それを展開して行く論法の面白さが、坪内さんの著作の魅力であるとは感じていた。しかし、今回の『一九七二』で、その魅力にさらに磨きがかかっていることを、目の前に示された。
早くも、これに続く五部作、七部作、九部作・・・が楽しみだ。