わけのわからないものへの、素直な畏れ

宮部みゆきさんの<b>『あやし』</b>(角川文庫)を読んだ。
これは、<b>『本所深川ふしぎ草紙』</b>や<b>『かまいたち』</b>(ともに新潮文庫)といった、宮部さんの時代ものの系譜に連なる作品だ。血なまぐさい事件が次々に起こるというよりは、不思議な出来事が江戸のそこここにはあって、当時の人々はそれを畏れながらもうまく共存していた部分もあるのだ、ということを描いている。

こういう、不思議な出来事というのは、歌舞伎の世界でもちょくちょく描かれていて、ちょうど、今月歌舞伎座で見た「実盛物語」にもあった。

田舎の百姓家に匿われている源氏の大将の奥方・葵御前の下に、源氏の白旗が届くのだが、その白旗は、その百姓家の娘・小万の切り落とされた腕がしっかりと握っていて、それを見つけたのが、小万の息子なのである。
さらに、水死体として発見された小万がこの百姓家に、地元の漁師たちによって運び込まれると、嘆きかなしむ家族たちに向って、主人公の実盛が「腕を体につないだら、息を吹き返すかもしれない」と言いだす。そこで試しに、切り落とされた腕を体にくっつけて、井戸に向って名前を呼ぶと、あーら不思議、小万は息を吹き返し、遺言を告げるのだった。

腕を接いだら息を吹き返すかもしれない、などとは現代の人は誰も考えない。でも、当時の人々はこうした不思議な出来事”を信じる、あるいは信じたいという心を持っていたからこそ、こういう物語が生まれたのだろう。また、井戸に向って名前を呼ぶのも、そうすると死者が生き返るという言い伝えがあるところから生まれた演出だと言う。

現代では、こうした言い伝えは、すっかり”非科学的”ということで排除されるか、うさん臭い目で見られるかだが、実はこの世で起きているすべてのことを、科学で解き明かすことはできていないし、解き明かさないままの方がいいこともあるのではないだろうか?
”わけのわからないもの”への、素直な畏れという感情が薄れてしまったことによる弊害もまたあるのではないだろうか。

宮部さんの小説を読みながら、そんなことを考えた。