「こ奴」にこめられた、”父”の愛(2)

談春さんの部。4枚目に使われている、顔のアップのカットの眼。これを見て「ああ、わたしは『紺屋高尾』の時の、花魁に思いを告げる若い職人の、この眼にヤラレたんだ」と思い当たった。
楽屋でCDを、じっと眼を閉じて聞いている、鏡越しの写真、楽屋でのくつろいだ表情、出の直前、などなど。いったい橘さんは何日通って、何枚撮ったんだろう?
そういえば、わたしが登録した「関心空間」のキーワードに「初めて高座を見たときに、ムダに男前だなと思った」というコメントをつけた人がいた。ムダかどうかは別として、このトビラの写真を見て「たしかに7人の中でもダントツの男前ではあるな」と、確認した。 

吉川さんの
<b>野球に例えると、談春は150キロの豪速球を投げる甲子園出場の高校生投手で、志らくは七色の魔球を投げる大学野球出身の技巧派投手である。</b>
という例えは、若き日の談春さんも、志らくさんも知らないわたしにも、とてもわかりやすい。
後から入門した志らくさんに、真打ち昇進では追い抜かれた談春さんであるが、それをバネに「真打ちトライアル」を勝ち抜いたことを、我が子のことでもあるかのように、自慢に思っていらっしゃるのが、伝わって来る。”期待の息子”だけに、ご本人には注文しか言って来なかったという吉川さんが、締めくくりで談春さんに贈った言葉は、それだけに重みを増す。
<b>亡き志ん朝師匠がそうだったが、高座姿の美しさ、様子のよさは、いくら努力しても身に付かない天性のものだ。それを持ち合わせている談春は落語家として幸甚であり、あとは噺を磨くことに専念すればいい。私はできるだけ長生きして、こ奴が名人になった姿を拝みたいと願っている。</b>
吉川さんの「こ奴」という言葉に、”父”の愛がにじみ出ているではないか。