一味違う「渥美清論」(2)

渥美さんの没後、美談として語られてきたエピソードに対して、わたしなどは無邪気に無批判に受け入れてしまっていた部分があるのだが、矢野さんは鋭い洞察力で、それに異を唱えている。少し長いが、そのまま引用する。
<b>役者渥美清は、いうところの売りこみ下手ではけっしてなかった。むしろ、そのことに関しては卓抜した感性をもっていたように思う。
松竹の「男はつらいよ」シリーズがはじまってすぐの1970年代には、キネマ旬報賞毎日映画コンクールなどで主演男優賞を得るのだが、その時分盛んになっていた小劇場運動のにない手たちによる新劇公演初日の客席の片隅に、じつにしばしば帽子を目深にかぶった渥美清の姿をみかけたものである。
自分で当日券売場にならんで、キップを求めて入場するのだが、きまって初日というのが泣かせる。新劇公演の初日は商業演劇の「お社」とおなじで、演劇記者、評論家の招待日なのである。あえて目立たぬ格好で、こんな芝居を観にくる渥美清が、演劇ジャーナリストたちの眼に、「勉強家」のイメージをあたえないわけがない。
もう定年でリタイアしたかつての演劇記者が言っていたことだが、さして売れていなかった頃の渥美清は思い出したようにひとり新聞社の受付にあらわれたそうだ。とりとめのないはなしに終始するのがほとんどで、売りこむことと言えば、むしろ昔の仲間のことのほうが多かったという。だが、これが二度三度とつづくと、こんど渥美清がなにかをするというとき、自分でも意識せぬうちに大きな記事を書いていたそうだ。</b>「? 渥美清と田所康雄と車寅次郎」P.14〜15
この件は、この後に語られる渥美さんの”上昇志向の強さ”とあいまって、単なる”勉強熱心な芸人だった”という美談と受け取ってこと足れりとするのは、違うのかもしれないと思えてくる。
続いて、矢野さんは
<b>いま、とても興味があるのは、渥美清がこのようなたくみにつきる売りこみから、いつ身を引いたのか、その時期である。</b>
と記している。
マスコミを通して語られた、この"美談"は、確かにいつ頃のことという特定なしであったために、晩年までそういう行いが続いていたかのように思われる。しかし、果たしてそうだったのか?