一味違う「渥美清論」(3)

後書で、矢野さんはこの原稿を依頼され、引き受けるに至った経緯を記す中で、それまで渥美清という役者に対して抱いていたイメージを、正直に吐露された。
<b>私は渥美清という役者が、どうしても好きになれないのだ。好きでないひとのことを書くのは私の本意ではない。と言うより、これまで多く書いてきた芸人のすべてに、私は格別の愛着をいだいてきた。(中略)
それまでは、好きでないことを関心が持てないという言い方で、自分をごまかしていたことにも思いあたった。</b>「終わりに_芸としての『生き方』」P.252

矢野さんにこの原稿の執筆を依頼した、元・東京新聞の記者であった三浦昇さんは、もう一つ、気乗りがしない様子の矢野さんへの口説き文句として、「あなたなりの切り口によるもの」を書いて欲しいと言ったという。
三浦さんのこの言葉がなければ、この渥美清論は生まれなかったのだ。
私生活を決してさらすことのなかった渥美清は、実は、晩年は車寅次郎という顔だけしか、わたしたちに見せなかったのではないか? 矢野さんの渥美清論を読むと、そんなことを考えさせられる。
そして、天国に行った渥美さんも、この矢野さんの鋭い指摘に「やっと、私のことを理解してくれる人にめぐり合えた」という思いを抱いているのではないか、というのは、うがちすぎだろうか。

小林信彦さんの『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)を、いよいよ読む機が熟したようだ。渥美さんについては、小林さんの本を読んだ上で、また考えてみたいと思う。

なお、この本には、矢野さんが愛情を持って書いてきた、さまざまな芸人さんへのメッセージをまとめた「芸人という生き方」と、芸人さんが書いた本、芸について書いた本の書評をまとめた「芸人の本、芸の本」も合わせて収録されている。
いずれも、矢野さんの「芸」に対する姿勢が貫かれていて、これまで知ることのなかった芸人さんや、芸にかんする本との出会いが、たくさんある。