『むかし噺うきよ噺』に膝を打つ(1)

先日、立川談春さんの独演会に行った帰りに、銀座まで歩いて、教文館書店に寄った。銀座のど真ん中で夜10時まで営業している本屋さんがあるというのは、なんだかいいではないか。

教文館の2階に上がると、まず入り口のところにある歌舞伎コーナーをチェックしてから、新刊の平台をざっと眺めるのは、毎度のこと。その日、特に探している本がなければ、その後、文庫・新書の棚を流して行く。
その時に気なっている書き手の本で、買い逃している本がないか探すのがメインだ。今なら、小沢昭一さんがその筆頭。手近の書店だと、近刊2〜3冊くらいしか常備されていないので、それ以外のちょっと前の本がないかを見ていく。
すると、新潮文庫の棚に『むかし噺うきよ噺』を発見。
他にも、何冊か気になる本を調達したのだが、帰りの地下鉄の中ではさっそく『むかし噺うきよ噺』を取り出して読み始めた。

今月の談春さんの独演会は、長屋を舞台にした噺二題で、最初が「粗忽長屋」だった。これは、長屋に住む二人の粗忽者が主な登場人物で、一人はそそっかしい方の粗忽者。もう一人はそそっかしい兄貴に押し切られてその気になってしまう粗忽者。で、そそっかしい方が早起きをして浅草にお参りに行くと、人だかりができていて、覗いてみるとそこには行き倒れの男の遺体。「熊じゃないか!」と思い込んだ兄貴は、あわてて長屋に取って返すと、生きている熊を現場に連れて行き「ここに倒れているのは、お前だ。手伝ってやるから一緒に連れて帰ろう」と二人で死体を抱き上げようとするという噺だ。

冷静に聞くと、そんな奴はいくらなんでもいないだろう、と思うのだが、聞いているとそのあまりの”粗忽ぶり”に、すっかり聞いている方まで引きずられてしまう。ただ、談春さんの噺を聞いていて「アレ?」と思ったのが、浅草にお参りに行ったのに、なぜか兄貴は拍手を打っていたこと。「江戸時代は神仏混交とはいえ、お寺にお参りに行って拍手を打つのはちょっと変だな」という疑問が湧いた。しかし、『むかし噺うきよ噺』の「字」という項を読んでいたら、久保田万太郎の句碑のことが書かれていて、その句碑があるのが浅草神社の境内だとある。そこで「そうか、浅草神社におまいりしたんだ」と思い至り、拍手の謎は一気に解けたのだった。