『女優であること』

関容子さんによる12人の女優への聞き書き。ほとんどの人が、文学座と何らかの関わりを持っている。これは、後書きを読むと、関さんが意図しての人選ではないらしい。それだけ、かつての新劇は(新劇という言葉自体が、もはや死語?)影響力があったということなのだろう。あの渡辺えり子さんが女優になったきっかけが、高校時代に郷里の山形で見た文学座の芝居で、感動して長岡輝子さんの楽屋に押し掛けたこと、というのは意外な気がした。
波野久里子さん、冨司純子さんの項は、ご本人のことよりも、歌舞伎役者の娘・妻としての部分の話が興味深かった。久里子さんの項で、”いかにも”な先代勘三郎のエピソードが、楽しかった。冨司純子さんの菊之助の母としての部分(分量としては、実はごくごく一部でしかないのだけれど)を読んで、歌舞伎役者の世襲制は、歌舞伎という演劇にとっては、なくてはならないこと(少なくとも、今のような時代においては)だし、いわゆる御曹司は、ただ御曹司だからいい役がつきいい名前を襲ぐ、などということは言えない(わたしはもともと、そんな風には思っていなかったけれど)ということを改めて強く思った。彼らは、物心つく前から、役者として必要な芸事を身につけるため、好むと好まざるとにかかわらず、日々稽古を重ね、舞台に立てば子役であろうと一人の役者としての責任を負い、周りからそういう扱いを受けるのだ。大変だよ、これって・・・。歌舞伎という芝居がなくなってもいい、っていうなら、世襲制を批判しても構わないけど。やっぱり、ついつい歌舞伎話に反応してしまった(笑)。
他にも、佐藤オリエさんの項で、劇団四季がかつてはストレートプレイの傑作を数々上演していたことを知り、というかそれ以前に、彼女が劇団四季に所属していた事自体、「へぇ〜」だった。
そうそう、渡辺えり子さんの項で、

「祖母や母が『桃太郎』の絵本を読んでくれると、鬼退治して帰ってきて、終りだ、って言うんですよ。でも桃太郎が生きてる限り、終りってないと思うんですよね。鬼や犬猿雉子はその後どうなったのか、って続きを考える癖がつきました。」                           P.243

と彼女が語っているのを読んで、勘九郎最後の「桃太郎」の原点がこんなところにあったのか!と。ああ、やっぱり歌舞伎話になっちゃうなぁ・・・(笑)。

女優であること

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