岡本綺堂や柴田宵曲は「美しい日本語」の宝庫

朝の空模様が「洗濯はやめといたほうがいいよ」と言っているように思える日がつづいている。一応、天気予報をチェックするのだけれど、どうもやめておいたほうがよさそう、という予報にダメ押しされて、洗濯物がたまる。
『読ホリデイ(上)』読了。都筑さんの書き方で「え!?」と思ったのが、数字の表記。千九百九十三年といった表記なのだ。都筑さんによると、新聞記事の文字数を減らすための工夫で一九九三年といった表記が始まったのだそうで、都筑さんは一貫してこの表記を使わない。
わたしなどは、記憶している限りでは、縦書きの印刷物では「一九九三年」という表記しか見たことがなかったので、読み始めてしばらくは、目が慣れなくていちいち驚いていた。
ほかにも、カタカナ表記や略語の濫用、訳注や訳者あとがきのあり方について、しばしば苦言を呈している。
都筑さん自身が「重箱の隅をせせるようだが」と断って、こうしたいわば"お小言"を書かれるのは、正しい日本語、美しい日本語を乱してはいけない、という考えからだ。わたしなどは、「あら、それも間違った表現ですか?」「それも誤用ですか?」と、かなりの部分に驚いて後「あ、気をつけなくては!」と思いながら読んでいた。
残念ながら、都筑さんがこれらのエッセイを書いていた1990年台と現在では、もはや「正しい日本語」の基準がかなり変化してしまっているので、すべてを都筑さんの指摘に従うのは、難しい。都筑さんがご存命だったら、さぞかし嘆かれたことだろう…。
都筑さんが、折に触れて柴田宵曲岡本綺堂の本を読み返しているのは、彼らの文章が美しい日本語で綴られているからなのかな?と思い至った。
わたしも、柴田宵曲岡本綺堂を読んで、せめて都筑さんに教えてもらった「美しい日本語」のあり方を意識して、言葉をしゃべり、書いていきたい。

都筑道夫の読ホリデイ 上巻

都筑道夫の読ホリデイ 上巻