仕事を終わらせて、赤坂文楽へ。
テーマは「菅原伝授手習鑑」ということで、前半は国立劇場での越路大夫引退興行の時の三段目の映像を見ながら勘十郎さんと玉女さんのトーク。伊達大夫さんの語りにいきなりノックアウトされた。
予想通り?勘十郎さんのキレのあるトークが目立っていたなぁ(笑)。お二人は修行時代の昭和41年からずっと一緒にやってきた仲だそうで、玉女さんも一所懸命にお話をしようとして下さるのだけれど、つい言葉に詰まってしまうと勘十郎さんが助け舟を出す、というパターンだった。
2月の東京公演では、勘十郎さんの夕霧と玉女さんの伊左衛門で共演されたけれど、お二人とも初役だったそうだ。夕霧の人形は、遊女のフル装備の衣裳・鬘である上に、足遣いさんや左遣いさんにその重みを助けてもらえない役なので、先輩方から「重いでぇ〜」と伺っていたけれど、今回本当に重いんだなぁというのを実感されたそうだ。玉女さんも「ドラマがないお芝居なので、難しかった」とおっしゃっていた。
そんなお話のあとに、いよいよ「菅原」の話が始まった。
昭和47年、東京公演で全段通しが出た時は、本当に「長かった」そうで、朝10時か10時半開演で、夜も10時くらいまでやっていたように記憶しておられるそうだ。当時は、お二人とも足遣いだったので、手に足金が当たって擦れてしまい、出血してしまい、痛くて痛くて大変だったそうだ。
お二人の「菅原での初役は」という話題も出て、玉女さんが菅秀才、勘十郎さんも「たぶん菅秀才」とおっしゃっていた。全段通しの時は、道行の里の童を遣ったとのこと。
このあと、映像を見てお話という形になり、まずは「茶筅酒」。八重は一暢さん、春が紋寿さん、千代が仙台の文昇さんだそう。その後、嫁三人の料理の場面になるが、勘十郎さんはそこで使う下座の「飯炊き」が大好きなんだそうだ。ここでしか使わないのではないかな?ともおっしゃっていた。
そして、松王と梅王がやってきて、喧嘩になる。玉女さんによると、ここは俵を投げたりもあって、重いし大変、な場面だそう。特に、足遣いは、裾をからげるので、内腿が落ちてしまわないように、と師匠から注意を受けたそうだ。
次が、「訴訟」。ここで「白太夫」という頭がとてもよくできている、と玉男師匠がおっしゃっていた(ちょっとうろ覚えです…)という話になり、白太夫の人形が床の後ろから登場。優しい顔も怒った表情も遣いようで表現できる、いい頭で「野崎村」の久作や「合邦」の合邦同心もこの頭を遣うそう。また、手が「さぶた(?)」という、丸くなって動かない手を使うのが決まりのようになっているそうだ。
そして、桜丸切腹へと話題が移り、玉女さんが「動けないが動きに心をこめなくてはいけない役」とおっしゃり、勘十郎さんは「桜の紋を見るところがカッコいい。やりたいですね」と。また、通しの時に玉男師匠が、昼が菅丞相、夜が白太夫を遣っていらしたので、とてもお疲れになったと思います」と。
二段目は「ほのぼのした空気から、どんどん悲劇へと追い込まれていく。白太夫は全てを知っていながら明るく振舞っているけれど、頭のなかは桜丸でいっぱい」という難しい役だとおっしゃっていた。
途中で、かつて大阪でお正月公演の後に行われていた「若手向上会」の思い出が語られた。玉女さんは1回めは春藤玄蕃の役をいただいたそう。2回めは勘十郎さんは「松王は玉女くんだろうなと思っていた。僕は武部源蔵が好きで、源蔵が来ないかなとそればかり思っていたら、白太夫も来てしまって、そちらは準備していなかったので…」と、若手向上会では、左に玉男師匠がついてくださって「あー、左が芸をしている!」と感じたそうだ。勘十郎さんは、簑助師匠とお父様の先代勘十郎さんが左についてくださって、前に行こうとすると「まだまだ」とばかりに引っ張られてしまって、「左と足が動かないと主遣いは動けない」ということを痛感されたそう。今でも、その時の役を遣うと、師匠に「そっちじゃなくて、ここだ」と引っ張られたことを思い出すともおっしゃってた(たぶん、これは玉女さんだった気が)。
その後、休憩をはさんで勘十郎さんと玉女さん、そこに一輔さんが加わり、千歳大夫さん・燕三さんの床で、「桜丸切腹」を上演。シンプルな舞台装置と、床が真横にあるという変則の舞台面だった。
5月には、花形による赤坂文楽が催されるそうで、チケットとりが大変そうだけど、呂勢さんがご出演なので、なんとかゲットしたいものだ…。

菅原伝授手習鑑 (岩波文庫)

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