歌舞伎や落語を「読む」楽しみ(2)

この本を読んで、鶴屋南北と講釈(講談とイコールだと思っていいのだろうか?)、そして三遊亭圓朝に興味が沸いた。
南北は、芝居としては代表作を見ているけれど、これまでテキストを読んだことがなかったのだが、宇野さんは、黙阿弥の科白と比較して、
<b>成程、黙阿弥は流暢なセリフを書く。理につんだ破綻のないセリフではあるけれども、南北の短いセリフの方に、私は人間の生への執着と、生きた人間の言葉を感じます。
私は南北によって、近代劇にもない、黙阿弥にもない、いわば不調和な美の世界があることを知りました。</b>
と、南北を評している。
あの、爛れたような、不快と快楽の境目ギリギリのところを、不快になる一歩手前で踏み止まる南北の退廃美の世界を、その科白が支えているということなのだろうか。

8月の納涼歌舞伎で「牡丹燈籠」を見て、圓朝にはもともと興味を持っていたのだが、宇野さんの
<b>私はもちろん、圓朝の話は聴いたことはありませんが、ボール表紙の速記本を学生時代に初めて読んだ時、感嘆したものです。
その全集が春陽堂から出たのは、大正15年でした。私は早速申し込んで、次々に読んだのですが、こんな素晴らしい小説はないとまで思ったものです。</b>
という件を読んで、俄然、活字で圓朝を読んでみたくなった。

歌舞伎や落語にライブで接する楽しみとはまた違う、「読む」楽しみができた。
とはいえ、圓朝を「読む」のは、どうしたものか、まだ迷っているのだが・・・。