スポーツと政治について

そして、ストイコヴィッチ=PIXYのこと。
彼は、それほど熱心でないサッカーファンであるわたしにとっては「気性の荒い、すぐキレる選手」という印象が強かった。
でも、ある時を境に、彼の顔に笑顔が見られるようになったのは、そういうわけがあったんだ、と納得。名古屋のサポーターに愛され、PIXYもまた名古屋を愛していたということを、ユーロ2000での、代表監督との確執を読んで改めてわかった。
<A HREF=<A HREF=http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3be9eb04314cb0105a09?aid=p-mittei16105&bibid=01927785&volno=0000>この本</A>の存在を教えてくれた、<A HREF=http://www.webdokusho.com/>本の雑誌</A>の炎の営業マン=杉江さん、ありがとう。
それにしても、スポーツと政治は別モノだったはずなのに、今回のソルトレーク五輪をみても、スポーツが政治の道具として利用されている。選手ひとりひとりの努力と、その競技にかけてきた思いは、どうなってしまうのだろう?

かつて、東西の冷戦構造が厳然とあったころ、モスクワ、ロサンジェルスと2大会連続のボイコット合戦があって、そのことによって選手生命のピーク時に、オリンピックに出場できず、涙を呑んだ選手がたくさん居た。
中には、柔道の山下選手のように、その悔しさ無念さをバネに、4年後にみごと金メダルを獲得した選手もいるが、それとて、東側諸国の不参加という、ある意味不完全な形での五輪だったことを思えば、政治がスポーツに介入するということは、止めてほしい。

かつて、ソウル五輪で驚異的なメダル獲得数を誇った東ドイツが、壁崩壊後、どうなったか? 確かに統一後も、第一線で活躍した選手もいた。しかし、国を揚げての選手育成という枠組がなくなった時、将来を嘱望されながら消えていったジュニア選手も少なくなかったはずだ。

国威発揚」という錦の御旗の下、その道具として利用された人、逆にそのシステムを利用した人、いろいろな人がいたはずだが、彼らは今、どうしているのだろう? たとえば、銀盤の女王として輝いていたカタリナ・ビットは? 男と見まがうばかりの筋肉で、水泳の世界記録を次々に塗り替えたクリスティン・オットーは? 彼女たちのその後は、ごく一般人であるわたしの耳には、噂話としてさえ、もはや届いてこない。