秘密は「声が聞こえる日本語」にあった(1)

朝から快晴、寒さもすこし緩んだ。
午前中は、くしゃみが多少出たが、例年のこの時期に比べるとだいぶ症状は軽い。

いつもの本屋に、四方田犬彦さんの新刊『大好きな韓国』(ポプラ社)がないか、チェックに行くが、見当たらない。
先日、「ポプラビーチ」のヨシダさんに会った時に、見本を見せていただいたが、とても面白そうだったので、早く読みたいと思っているのだが・・・。

先日読んだ坪内祐三さんの『雑読系』(晶文社)の中で、矢野誠一さんの『荷風の誤植』が取り上げられていた。
矢野誠一の『声の聞こえてくる日本語』」というタイトルだ。
その中で、坪内さんは、矢野さんの『荷風の誤植』に収録されている「一葉の声をきく」という一文から、
<b>そう、矢野誠一の文章からも確かな「声」が聞こえてくる。ここがポイントだ。
声の聞こえてくる文章。
私は、いわゆる「声に出して読みたい日本語」にはまったく興味がない。しかし「声の聞こえてくる日本語」は大好きだ(その「声」は黙読であっても、いや時には黙読であればこそ、確実に聞こえてくる)。そして問題は、そういう「声の聞こえてくる日本語」を書ける人が、どんどん少なくなってしまっていることだ。</b>
と述べている。

この文章を読んでいて、思いあたったのが「聞き書き」や「評伝」のことだ。
たとえば、関容子さんの『役者は勘九郎 中村屋三代』や、吉川潮さんの『江戸前の男 春風亭柳朝一代記』だ。
どちらも、実在の人物の足跡を、ご本人を中心にその周囲の人々のことまで描くことで、前者は「歌舞伎」の、後者は「落語」の、一時代を浮き彫りにしている。
どちらも、わたしは読みながら笑ったり、ホロリとしたり、感心したり、共感したり、すっかり登場人物が身近な、よく知る人のような気分になっていた。
そういう気分になれたのは、そこに記された文章から、声が聞こえてくるからなのだ。