『六の宮の姫君』(二)そして『謎物語』へ

北村薫さんが、優れた書き手であることは、明白な事実だ。
その上、優れた読み手でもある。
『六の宮の姫君』の「私」と円紫師匠によって、さらに北村さん初のエッセイ集だという『謎物語 あるいは物語の謎』(中公文庫)を読んで、わたしは感じた。

たとえば、文学全集のラインナップについて、福永武彦編による『森鴎外集』を例に述べられた次のような指摘が目を引く。
「つまり、この本は『森鴎外集』であると同時に立派に福永武彦の作品なのだ。」
「福永の『森鴎外』のように、どういうものを選ぶかという《選択そのもの》も立派に一つの作品だと思う。」
ここでとりあげられている福永編による『森鴎外集』は、これまでの「日本文学全集」的な本では、拾われなかった作品を、福永が自分の基準で選んだものだという。
その選択眼への賛辞が、上に引いた「私」の感想であろう。その上、それぞれの「全集」や「選集」の特徴を語ることができるほど、さまざまな作家の作品を読み込んでいなければ、気づくことはできない。

そして、引き続き読んだ『謎物語』を読んでいくと、北村さん自身の発言として、その読み手としての慧眼が、ますます浮き彫りになってくる。
たとえば、第六回「懺悔と叙述トリック」の重要な引用文である。
作曲家服部公一氏が、雑誌「文芸春秋」の巻頭随筆に寄せた「やっこらしょ、どっこいしょ」という随筆を読んだ北村さんは、このミステリーとはおよそ反対にある随筆をタネに、”叙述トリックとは、こういうものなのだ”ということを、見事に指摘している。

これに限らず、読み手・北村薫のスゴさが、作家・北村薫の仕事として結実しているということが、このエッセイ集を読むと、非常によくわかる。
にもかかわらず、北村さんは「忘れっぽいわたし」と書いておられる。
これで、「忘れっぽい」のだとしたら、わたしなんぞは”忘れる”どころか”目が節穴”状態であう。

ついでに言うと、『六の宮の姫君』も『謎物語』も、わたしにとっては、”積ん読本の素”としても、楽しめた。とともに困ったものでもある。
その証拠に、次に備えてすでに『覆面作家は二人いる』(角川文庫)を購入してしまった。