落語は生で

最近、気になっていることがある。
落語を聞きに行く場合、あらかじめ演し物がわかっていたら、予習をするべきなのか? ということ。

お能の場合は、予習をしていかないと、かなりキビしい。文楽や歌舞伎は、会場で入手した筋書きで、粗筋をつかんでおけば、まあOK。
実際は、ほとんと筋書きに書かれている粗筋も読まないまま、舞台を見ていることが多いのだが。

それじゃあ、落語は?というと・・・。
今のところ、予習はほとんどしたことがない。
落語の場合、話の内容は、聞くだけでわかるので、変に先入観を持ちたくないと思うのだが、どうなんだろう?
まだまだ、同じ演目を何回も聞くという状況にはなっていないので、とりあえず、その日に聞いた噺を復習する意味で、活字本で読むようにはしている。

今のところ、落語のCDも数枚しか持っていない。それも全部、志ん朝師匠のものだ。落語を聞きに行こうと思い立った、一番最初のきっかけは、志ん朝師匠だった。生の高座を一度も聞くことができなかったことを、訃報を聞いたときに、とても悔やんだ。興味がなかったわけではないけれど、なんとなく、いつでも聞きに行けるような気がしていた(実際は、師匠の出る落語会の切符を手に入れるのは、とても大変だったらしく、いつでも、なんてことはなかったのだろうが)。一日延ばしにしているうちに、師匠は旅立たれた。だから、CDで聞くのは、今のところは志ん朝師匠と決めている。
志ん生文楽は、まだまだもっとずっと先、と自分の中では決めている。

志ん朝師匠のCDを買うときも、談春さんの独演会で聞いた噺や、寄席で聞いた演目を選んでしまう。小林信彦さんや、中野翠さんが志ん朝師匠について書いた文章を読んでいると「こんなスゴい人の落語を、もう生で聞くことができないのに、それを自分の基準にしてしまうのは、なんだか違うのでは?」という気がしてしまうのだ。

だから、ひとつひとつの噺との出会いは、”生”がいいな、と思っている。
職業にしようというわけでもなく、研究しようというわけでもない。
”生”の落語を聞いて、好きになったのだから、それでいいのでは?
単なる若葉マークの落語好きとしては、思うのだが、いかがなものだろう。