「太鼓のこと」

能楽全書第7巻に、いろいろな名人の芸談(といっても短いものだけれど)が収められていて、そのうちの柿本豊次「太鼓のこと」というのを読んでみた。
能楽と歌舞伎囃子では、いろいろと相違点があるのは、うっすらとわかってはいるのだけれど、ここで「へぇ〜」と思ったのは、能楽でも太鼓のお流儀によって、楽器の形状が違うということ。

金春流の胴は、古いものは胴の外側が垂直なのに対し、観世流は丸みをもっています。これも流儀の相異のうちでおもしろいことの一つです。

楽器の形状が違うことによって、調緒の締め方も逆になるというのは、理屈からいえば、そうなのかもしれないけれど、なるほど、と。
観世流の太鼓(胴が丸みをもっている)は、

縦調緒で、力いっぱい締めておいて、上の横調緒は「心して」軽く締める

金春流では(胴の外側が垂直)、まったく逆になるという。
また金春流では、打つ時に

真直に撥を上げて、ほとんど垂直に太鼓の面に打ち下ろす

ため、撥皮も垂直に切り落としたまま貼り付けるが、

観世流では少し斜上に撥を上げて、面に対して斜に打ち込む

ため、撥皮の外周を斜にそぐという。
そういえば、撥皮の大きさが、観世流より金春流の方が小さいと、聞いたことがあるけれど、それも基本の打ち方の違いに関係しているのかもしれない(ちなみに、撥の太さも金春流の方が太いと聞いた)。
見た目で一番わかりやすい違いは、“肩の撥”の型。言葉で説明するのは、ちょっと今のわたしにはムリだけれど、これは、ちょっと注意してみれば、誰にでもわかる違いだと思う。

また、太鼓の概念を述べている冒頭の部分では

一曲の中で太鼓が鳴り出すと、曲を進行させるための支配権は太鼓に移ったんだぞ、といふ演出上の重い責任のあることを意味するのです。すなはち、太鼓が加はるまでは、曲の指揮権が主に大鼓にあるのに対して、その速度、謡の見はからひ、型の見はからひなど、すべて舞台上の事柄が太鼓に一任されてくるわけです。

と述べられている。

音については

昔は現在よりも調子が一体に大きく、低い音だったやうです。
(中略)
低い調子でも、よい音を気持ちよく出せたら、全く素晴らしいですね。低いから暗い感じになるといふことではなく、低ければ低いなりに、太鼓としての音が完全に出たら、本当にスッキリした気分になるはずでせう。

とある。
三味線の調子も、昔に比べて高くなったとよく言われるが、邦楽全般にわたって、調子が高くなっているようだ。

最後のまとめで、

流儀の違ひといふのは妙なもので、調緒のかけ方、締める時の太鼓の置き方、力を入れる手など、すべて金春流が右なら観世流は左と、全く逆の状態で道具を扱ふのですが、ただ一つ同じことは、両流とも撥皮の面を打つことだけは変りがないといふのもおもしろいではありませんか。

っていうのが、なかなかステキだなぁ(笑)と思う。